京の肉処コラム

牛鍋は「文明開化の味」だった

2019年08月29日

 先回は、牛肉の歴史や明治時代に人気だった「牛鍋」などについてお伝えしました。今回は、牛鍋が進化して現在の「すき焼き」になるまでの発展にフォーカスしていきたいと思います。

 

明治になっても日本人は、牛肉に抵抗を感じていた

 今の私たちは当たり前のように喜んで食べている牛肉ですが、明治時代頃の庶民にとって牛肉を食べるということは、かなり抵抗があったようです。なぜなら、先回お伝えした通り、日本では1200年以上もの間禁止されていて、獣の肉を食べると心身がけがれる、という仏教思想があった為です。

 明治政府は肉食解禁しましたが、食べものとして扱ったことがなく、役牛として飼っていた為、牛を食することに大きな抵抗があったようです。調理の仕方も全然分からないということもあって、牛肉は庶民の食卓になかなか登場しませんでした。

 

「牛鍋」の大流行

牛鍋

 この肉食への強い抵抗感を和らげたのが「牛鍋」でした。

 欧米の肉料理のように香辛料は使わず、味噌・醤油・砂糖で味付けした日本で生まれた料理です。つまり「牛鍋」は、欧米の料理をまねたのではなく、欧米の素材をうまく自分達の文化に取り込んだと言えます。こうして日本人の肉食に対する抵抗は徐々になくなっていきました。

 当時、西洋料理店が日本橋や神田など、文化人に馴染みのある地域に偏っていたのに対し、牛鍋屋は浅草を中心に下町中に広まり、明治10年には東京府下だけで、なんと550件以上あったそうです。(昭和18年、東京都になるまでは「府」であった)毎日1万5000人以上の人が、「牛鍋」を食べていたという研究結果もあります。牛鍋屋の流行は、本当に凄かったようですね!(画像は「牛鍋」)

 有名な明治時代の小説『安愚楽鍋(あぐらなべ)』の中で、大工や左官、芸奴らが「牛鍋を食わねば開化不進奴(ひらけぬやつ)」などと言って牛鍋を得意気に食べて、牛鍋屋が大繁盛する様子が描かれています。

 店に足を運ぶのは、車夫(人力車を引く人)や職人達で、資産家や文化人たちは、牛肉を家に配達させていたそうです。福沢諭吉らの影響で、慶應義塾の学生たちも足しげく牛鍋屋に通ったのだとか。

 

大正時代には「すき焼き」に

鋤(すき)

 明治には「牛鍋」と呼ばれていた料理ですが関東大震災(大正12年)後は、農具の鋤(すき)の刃上で鳥や獣の肉を焼いたことに由来して関西で好まれていた「すき焼き」と融合、名称も「すき焼き」となり、全国へ拡がっていきました。

 涼しくなると恋しくなる「すき焼き」。実は新しいものを自分達の文化に見事に取り入れた、日本の先人達の知恵が隠れていました。次に召し上がる時には、そんなすき焼きの歴史に想いを馳せて味わってみて下さいね。

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